『「正法眼蔵」で生きる智慧』 by 公方 俊良
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読んだ/観た日:2020/06/10 - 2020/07/28
★思想・哲学/自己啓発・新書/IT総合:2.5
深さ/人生への影響度:2.0
新知識/新しい気付き:3.0(正法眼蔵の言葉)
分かりやすさ:3.0
他の人におすすめ:2.5
あらすじ/概要
仏教の真髄=『正法眼蔵』から学ぶ人生の心得。わかりやすい!道元禅の核心。混迷する現代を、強く、確かに生き抜くために。難解と言われる『正法眼蔵』を56の名文から一気に理解。
読書/鑑賞中メモ
実家にあったから読んでみたシリーズ
「おまえさんたちの声は喉から出るが、わしらの声は腹から出る」
「仏道を修めるということは、自己を修めることである。自己を修めるということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、真実を明らかにするということである。真実を明らかにするということは、自己の身心も、自分以外のすべてのものにも、いっさいとらわれないことである。そうすると、ついに悟りを得ることができるが、そのことにもとらわれなくなったとき、悟りが身についてくる」結局自分の物理的な性質を知ることなのだろうなと思う。冷静に自分という物体を眺めると、そこに”自己”という区切りは存在しないことに気付き、ただただ物質の行き来する作用としての自己に気づく。仏教と科学の相性がいいのはこのためだ。最後のそのことにもとらわれなくなった時、悟りが身についてくるという一文は肝に銘じたい。悟りを身につけるというのはとてもむずかしい。あとから冷静になればこうだったと思えることも、その渦中にいれば冷静ではいられない。
世のため人のために生きよってブッダはほんとに言ってるんだろうか?
「仏性とはすべてのものが自他の対立を超えて一つになった姿」
「よく、人生に迷いを生じて”この際、座禅でもやってみよう”と思い立つ人がいる。そして、座禅をすれば、何か奇跡が起こって自分が救われたり、新たなヒントが湧いてきたりするのではないかという期待感を抱いて取り組むものだ。ところが、そのような人は、座禅をいくらやっても、足が痛いくらいで何の解決にもならない。ー中略ー なぜなら、座禅をやることは”何もない”ということを知るためにやることだからである。何もないところに”ある”と期待することは、根本的な間違いを冒しているのだ。」
「仏教では、死んで仏になるのではなく、生きているうちに仏になることを目指すのである」このことを分かっていない人が多すぎる。仏教はとても現世利益を重視した教えなはずだ。涅槃とは天国のことではなく、悟りに至った心境/内面を具象化したものである。そして地獄とは、欲や怒りに囚われた状態を具現化したものである。
「このような”自分さえよければ”という自我の生き方は、結局、他の人々から疎まれて生き方が狭くなり、不幸になるものだ」なぜ自分さえよければと思うかというと、自分というものがあるからだ。自分というものを世界から切り離すことによって、あたかも自分だけが得をするという状況が発生するように思われる。だが、この世に本質的には自分という区切りはなく、世界は連続的である。すなわち、自分だけが得をするという状況は存在し得ない。そのことを知り、世界全てをありのまま受け入れるような姿勢こそが仏性の本質ではないか。
この人は若干ズレてる気がしなくもないが…病気や災難にあった時、それに集中して取り組んで治せ、と言ってるのではなく、災難を災難と定義するから災難なのであって、災難を災難のまま甘受すれば、死も死のまま甘受すれば、怖くもなんともないよね、みたいな意味なんじゃないかなあ…結局仏教の本質は空であって、善悪や良し悪しといった定義自体を否定し、ありのままの物性=仏性=モノ自体への回帰=悟りを目指す実践哲学であって、何かを解決する、ということは目指していないのではないか。なんというかちょっと情緒的にすぎる気がするな…仏教はもうちょっとロジカルなものだと思う。
子供に勉強の大事さを口で言っても仕方ないのはそうかも。結局勉強の大事さを”経験”しているのは自分だけなのだから、それを言葉でいくら言ったって、子供には意味がない。結局、やらせるしかないのだ。
「仏に任せきっていくことによって、仏に導かれる喜びが湧いてくるのだ」うーん…だんだんきな臭くなってきたな…往々にしてこういう長編みたいのを読破してる人って、それを消化できずに丸呑みにしてるケースがあるが、そんな感じするなあ…まだ消化不良な感じかな。仏教はもっと自分で考えなきゃいけないものなんじゃないだろうか。個人的な経験に落とし込んでこそ悟りが得られるのでは?同じことやってても仕方がない気がする。まあ悟ってない俺が言うことじゃない笑
「同じ死でも、仏教の教えでは涅槃、つまり最高の安楽の境地に至ることであるし」仏教で涅槃=死なんだっけ…?涅槃=悟りの境地、滅=死じゃないのかな…死は涅槃ではあるが、涅槃は死ではないでしょ。あれ、じゃあいいんじゃんwなんかバイアスかかってきたなよくない。
「つまり、生きるとか死ぬということは、自然界の元素が離合集散しているにすぎないのである。そうすれば、生にとらわれたり、死にとらわれたりすることは何もない。」いや、なんでだよ笑そこは飛躍があるでしょー。元素が離合集散しているに過ぎないからって僕らが死を恐れないこととは関係ないんじゃ…
「全世界が自己であり、自己が全世界だ」これは無限連鎖的な世界では自明である。私の今の決定は少し前の現象に依存しており、少し前の現象はまたその少し前の現象に依存している。ということは、私が行う全ての行動は、この世界の過去全てに依存しており、また、私の今の行動も、未来の全てに影響を与えている。というよりも、時空間全て含めて完全なのであり、たとえば、私が存在しない世界というものは存在し得ない。あらゆる意味において、全世界が自己であり、自己が全世界なのである。
「『栗や柿の実にたとえてみるとよい。悲しみとは、人から見た分別であって、栗や柿の実から見れば、痛みや悲しみも自然にそなわったものに過ぎない。草木が傷む風情と、人が傷み愁える気色と、どこに違いがあろうか。』」さすが沢庵和尚。「このことにもわからず『オレはダメ人間だ』などとクヨクヨ生きている人間は、草木にも劣るといわねばならない。」いや、そもそも劣るとかそういうのが”人から見た分別”だよねっていう話じゃないのかな…オレはダメだと思っている人間はダメだと思っている事自体が人の分別にとらわれている。
「本当に努力し、頑張っている人は、社会が放っておくはずがない。ひたすら自らの未知をあるき続ける人が、勝利の栄冠を得る人だ」仏道は勝利の栄冠とか、社会的な承認とか、そういうものは求めていないんじゃないかな…やっぱりなんていうかこの人は成功を求めている人なんだな。本当の意味で仏教徒とは言えないんだろうな。
感想/考察
わかりやすく書こうとしているのかもしれないが、本質から外れている気がする。
なんというか…サラリーマンとか経営者とかそういう人向けに書かれているのかな…禅を学ぶことで成功する、っていうような方向性に思えて、ちょっと違和感があった。そもそも成功とか勝利とかそういったものから離れて、日々の仏性に気づいていく、無我の境地に至ることを目指すべきであって、世のため人のために頑張って努力すれば成功するんだ!みたいなのはちょっとズレてる気がするな。『人類を前に進めたい』 by 猪子寿之の方がよっぽど仏教の真理を感じた。 でも正法眼蔵の言葉自体はさすがというか納得するものばかりだった。解説が蛇足な感じが否めない。